神に導かれたのか

ある日曜の昼下がり。空には一転の雲もなく、こういう日には街を散歩でもして、どこかお洒落なカフェのテラス席で優雅にコーヒーでも嗜みたいところであるが、どうにもそんな気分にはなれず、僕はだらだらと布団を頭までかぶって、万年床に寝転がりただ時間を浪費していた。
しかしながら、これまた面倒なことで、一日中寝ている気分でもなく、はてさてどうしたものかと思っていたところに、ある考えがひらめいた。
それは、映画を見るということだった。山形県の永代供養墓

普段、僕は映画など全然見ない。だから、なぜこのとき映画を見ようと思ったのかは謎であったが、僕はともかく服を着替えて、駅前のTSUTAYAに向かった。
店に着くと、とりあえずぼんやりとタイトルを眺める。
あれでもない、これでもない。
これかな、と思い、手に取って眺めては、元に戻すを繰り返す。
こうして、気が付けば30分が過ぎていた。
このころになると映画を鑑賞するという意欲は失せ、やっぱり家に帰って本でも読むか、と思い始めていたところ、ふとある一本のタイトルが目に入った。
タイトルは、「神は死んだのか」というものだった。
その表題が目に入るやいなや、僕はケースを手に取った。
クリスチャンの大学生が無神論を唱える哲学教授に、神は存在するということを論理的に証明するという映画だった。
僕は一瞬にして「これだ!」とピンときた。
なにか哲学的な、自分の人生になにか影響を及ぼすような、深い気づきを得られるのではないか、と期待して僕はこの作品を借りた。
そうして、足早に家路につき、鑑賞を始めた。
久々に胸が躍る感覚があった。
しかしながら、単刀直入に言おう。かなりの期待はずれだった。
学生と教授の間の議論には、ドーキンスやホーキングなど著名な人物の言葉が引用されているのみで、彼らなりの考えというものがなかった。
そうしてなんとなく学生が教授を言いくるめて、舞台はコンサートホールに移る。
そこでは、クリスチャンのコンサートが行われていた。
そして僕は、衝撃的なシーンを目撃するのである。歌い手が聴客に対して「さあ、みんな。友達に今すぐメールを送ろう。
『神は存在する』と」とのたまっていたのだ。
なんだかキリスト教原理主義者が布教活動のために制作した映画みたいで、見終えたあとには、ひどい不快感と、こんな作品がTSUTAYAに置いてあるのか、という驚きとほんの少しの笑いがあった。
タイトルを目にしたとき、神に導かれでもしたかのようにピンとくるものがあった。
しかし、やはり神など存在しないのだ。
ああ、一日を無駄にしたな、というぼやきのあとに、長い人生、たまにはこんな日があってもいいのか、となにやら悟りのようなものを開いたある日曜の出来事だった。